「地に火を放つ者(双子のトマスによる第五の福音)」

借りていた三田誠広の「地に火を放つ者(双子のトマスによる第五の福音)」はイエスの生涯を描いた物語で689ページに及ぶ大部の小説だが、どうにか2週間の期限の9日までに読み終えることが出来た。三田はライフワークとして釈迦とイエスの生涯を描くことを挙げているが、直前に読んだ釈迦の生涯の小説「鹿の王(菩薩本生譚)」に続き、作者の渾身の筆力の素晴らしさに先ず敬意を表したい。物語はイエスと12使徒の一人トマスを双子の兄弟と大胆に設定し、荒野での二人の出会いに始まり最後の晩餐、ゴルゴタの丘での十字架の場面、その三日後の復活で終わる。「第1章、トマスは荒野で自分に似た男に出会う」から「第23章、エマオの奇蹟と疑いのトマス」で終わるのだが、章の始めの見開きページの活字を大きくして章各々が小宇宙のように際立つ効果を感じる。最後の場面を一部割愛してそのまま引用してみる。
「見ただけで信じるのか。お前らしくないぞ」
耳もとで声が聞こえた。瞬きをして、目の前を見ると、手の触れるほどの近くに、男が立っていた。
男が手を伸ばして、トマスの手に触れた。
「さあ、触れてみよ。疑いのトマス。お前は手の触れたものなら信じるだろう」
男の手首に、深い穴が開いていた。十字架に打ち付けられた釘の痕に間違いなかった。トマスは自分の手首に、痛みが甦るのを覚えた。思わず引っ込めようとしたトマスの手を、男が摑み、衣をはだけて、自分の胸のあたりに押し付けた。槍で穿たれた穴の痕があった。トマスはまるで、自分の手で自分の胸に触れた感じがした。その胸の奥で、熱いものが、いまも燃えていた。
(中略)
幻を見たのか、とトマスは胸のうちで呟いた。
トマスは目の前に、自分の手を差し出した。痛みがあった。よく見ると、その手首に、傷痕のようなものがあり、うっすらと血が滲んでいた。
トマスは自分の胸を手で探った。そこにも傷痕があり、火のようなものが燃え盛っていた。
これが自分の十字架なのだ、とトマスは思った。自分が体験したこの出来事を、一刻も早く使徒たちに告げなければならない。
トマスは身を翻し、カペナウムの町に向かって、足を急がせた。
●聴いた曲
 「愛のアダージョホセ・カレーラス不滅のメロディを歌う」
    ホセ・カレーラステノール