こだわり、生きざま、癒し

今月号の文藝春秋に「私たちの嫌いな日本語(爆笑憂国座談会)」と題して阿川弘之阿川佐和子の阿川親子と村上龍の対談が載っている。阿川弘之は旧海軍出身で、司馬遼太郎の後を受けてこの雑誌の巻頭随筆を担当している。旧仮名遣いで書かれた文章は毎月楽しみに読んでいる。佐和子は親友の壇ふみと一緒にブラウン管によく登場して、ユーモアのある硬派の語り口がユニークだ。村上はサッカー通でヒデとの雑誌の対談記事や、ペルージャ時代の彼をモデルにした小説を読んだことがある。ただ小説に関してはもう一人の村上である春樹の方をよく読んでいる。
3人の対談から各々の発言の一部を引用してみる。
阿川弘之は嫌いな言葉として3つをあげている。
いやな言葉は実にたくさんある。まず「こだわり」という言葉。「こだわる」はもともと「そういつまでもこだわるなよ」と悪くひっかかる意味でだったのに、「美味へのこだわり」、「平和へのこだわり」といったおかしな使い方をされている。次に「生きざま」。「死にざま」という言葉は古来からあるが「生きざま」という言葉はなかった。3番目は「癒し」という言葉。もともと医療用語なのに「モーツァルトの音楽は私の最高の癒しです」なんて、気持ちが悪くなる。
佐和子は「とても」に関して父から次のように指摘されたと言う。
お前は「とても」という副詞を「とてもきれい」とか「とても素敵なセーター」とか肯定的な意味で使っているが、志賀直哉先生(弘之の恩師)の時代には「とてもやっていられない」「とてもかなわない」といった具合に否定的な文脈で使う言葉だった。芥川なども「とても安い」と肯定的に使うのに反撥を感じていたようだ。
村上龍は「頑張る」が嫌いだと言う。
テレビのサッカーの試合を見ていて、フォワードの選手が「今日は頑張ります」っと言うと、「頑張らなくてもいいから、1点とってこい」と言うんです。ディフェンダーが「ワールドカップでも頑張ります」というと、テレビに向かって「お前は頑張らなくてもいいから、1点もやるな」と言ってしまう。
私も「頑張る」に関しては次のような光景を思い出す。
プロ野球で試合を観戦に来たオーナーが外国人選手を激励したとき、「頑張れ」と言ったのを通訳がそのまま直訳で伝えたら「自分は当然頑張っている」と反撥した。外国人にとって「頑張れ」というのは「ベストを尽くしていないように見える。ベストを尽くしなさい」ということになるらしい。言葉は難しいものだと自戒する自分がいる。
●聴いた曲
  ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番、第4番」
   ウラディミール・アシュケナージ(指揮・ピアノ)クリーヴランド管弦楽団